廃墟伝説来場者数600万人突破記念として、『
塩田観光ホテル知新荘』の調査レポートをUPしました。新館、本館、別館、旧館が複雑に入り組んだ迷宮系ホテルです。

正解は、龍が4つで
『
ドラクエ4』
です!
龍が3つなら
『
ドラクエ3』
ですね♪
なぁんて、正解は、写真を見ての通りです♪
龍龍
龍龍
で「テチ」とか「テツ」と読みます。
これは、ギネスブックで公認されている最大画数の漢字です。
画数は64画で、意味は『口数が多い様子』だそうです。
ちなみに、
興興
興興
という64画の文字も存在しますが、
こちらは意味が不祥だそうです。
公認されている文字ではないですが、もっと画数の多い漢字があり、
雲
雲雲
龍
龍龍
で一文字であり、画数は84画で「たいと」と読むそうです。
こういう苗字の人がいたらしいんですが、都市伝説と化しています。

関西に行った際に見つけた、とあるレストランの名前です。
龍の字を4つ書いて、1つの漢字になっています。
なんて読むかわかりますか??

廃村『寒川』に行く前に立ち寄った食事処『かこい』。
そこで食べたのが、写真の『みやび鯛荒炊定食』(1575円)です。
天草特産のブランド鯛『みやび鯛』のお頭の荒炊と刺身がついた一品で、このお頭の荒炊が絶妙においしかったです。
お頭を醤油、砂糖、煮切り(日本酒を煮詰めたもの)、だし、みりん、牛蒡、生姜で煮れば良く、自分でもできそうなので、家でも作ってみたいと思います。

千葉県有数の不良少年収容所と言われた暴走学園。
全寮制の男子校の廃校です。
その寮の中には、ステキングな落書きがいっぱいありました。
いきなり、この生活目標です。
『
今日もキミは爽やかですか? ネクタイ、ワイシャツ、ボタンも爽やかですか?』
逆に聞こう!『先生!ボタンがさわやかとはどういうことですか?』
これじゃ、ナメられるわな・・・orz

新しい2号室の入り方。
①ノックを2回。
②まず本名(フルネムでいう)
③次にあだな または通称をいう
④ギャグを一発かます
以上を守らない人は知りません。
成功したらプレゼントあげるし大かんげい。 byつねちゃん
っつか面倒くせ~~~!
こんな部屋、行きたくないわい!
しかも
フルネムいわなあかんし(笑)

『
同じ友達でーす イジメ・パシリ 家に報告す』って、先生!それでイジメ・パシリがなくなると思ってるんですかぁーーー?

『秀ちゃんの愛液のみたい』って、怖っ!BLの世界やぁ・・・ しかもリーゼントのヤンキーのBLやぁ。
しかも、ここでは載せられませんが、結構、リアルでえげつないシーンを描いた絵があったりもします。ハッキリ言って、狂気が乱舞しています(笑)。

今日は懐かしい風景を見つけたのでお知らせします。
場所は静岡県の伊豆地方、某温泉街です。そこで、
十億ゲームセンターなる看板を発見しました。十億使ってゲームをするなんて、脳内妄想でラスベガスに行ったとき以来、久々です(笑)。あの時は、
バイソン将軍(ストリートファイター)を倒すのに、苦労をしました。早速、どんなゲームがあるのか物色します。

最初に現れたのは
ボットル落し射的です。射的はともかく、
ボットル落しってなんでしょう?残念ながら、時間帯が早いのか、お店は閉まっていたので、その真相はわかりませんが、恐らく、ボットン便所の下に的があって、そこに上手く○○○を落とすゲームではないかと・・・(爆)。それとも、ゲーム料金が十億だから、『ぼっとる』(ぼったくりをしている)という意味なのか??

続いて
ドライブゲーム動物たおしなるアトラクションを発見!これは、ドライブをしながら、色々な動物たちを轢き殺していくという
恐怖の動物虐待ゲームではないでしょうか?(爆)。野生動物保護団体からクレームがあったものの、ゲーム主催者側は、「
これは野生動物ではありません、家畜です」といい返して、ゲームの合法性を主張したとか・・・(爆)。轢き殺された動物は、ハンバーグやつみれ、ミートボールやミンチカツなどとしてお土産に持たせてくれます(嘘)。やはり狙うは「
大田原牛」(松阪牛の3倍くらい値段が高い高級牛)でしょうかね。大田原牛一頭倒して、一頭まるまるハンバーグとかにしても、十億の元は取れませんが(笑)。っつか、ステーキで食いたい(笑)。

久々のブログ更新です。こんなに放置していたのに、いつも見に来てくれている人がいるようですので、更新再開することにしました。
今日は、鶏肉料理の専門店を紹介します。
宮崎県にある『鳥ちょう』というお店なんですが、ここは
地鶏日向赤鶏を使用しています。
写真は、その刺身です。4種類の刺身が入って735円でした。
左上が「ハツ」、その隣が「レバー」、真ん中が「モモ」、右下が「砂肝」です。
やはりブロイラーの刺身とは全然違って、臭みもまったくなく、美味しかったですね~
特に、砂肝が絶妙でした。

もう一枚の写真は、チキンカツ定食(977円)です。
もちろん、日向赤鶏のチキンカツで、こちらもおいしかったです。
この値段で、ご飯とみそ汁がおかわり自由なんで、おなかいっぱい食べられます。

今回は、リクエスト公開物件です。
岐阜県にある
S診療所の調査レポートを公開しました。
チーム酷道のよごれんさんに案内していただきました。
大正時代から太平洋戦争時あたりまで開業していた古い木造の診療所で、戦後の物品が一切置いていない半世紀以上封印されていた廃院です。
調剤室には実験室の薬品庫のように多種多量の薬品が棚の上のところ狭しと並べられて置いてありました。それぞれの
薬品についてもレポートしています。

かなり遅くなりましたが、『廃墟伝説』来場者数510万人突破記念として、静岡県に『
地○水力発電所』の写真をUPしました。
大正時代(1910年)に開業した『東海紙業地○水力発電所』は、2台の発電機が設置され、出力は2250kW(後に1000kWに増設)でした。
笹○渡発電所の開業により、1931年に休止しましたが、戦後、再び再開しました。
上流に発電所用の堰が作られることになり、取水が困難になったことと、東海紙業が赤松水力発電所を取得したことにより、1961年3月31日に廃止になりました。
現在は、幹線道路沿いにポツンと残っており、案内看板も立っていて、産業遺産として保存されています。
それから、『廃墟伝説』のトップページのアドレスが変更になります。
今まで使っていたサーバーのサービス終了に伴うものであり、新しいトップページのアドレスは、以下のようになります。
http://kuromax.web.fc2.com/index.htm
ブックマークされている方は、アドレスの変更をお願いします。
また、リンクを貼っていただいているサイトの管理人様も、ご面倒でしょうが、リンク先の変更をお願いいたします。
もうすぐバレンタインですね!
みなさんは、好きな人やお世話になった人にどんなプレゼントをあげますか?
月や金星や火星の土地をプレゼント!
なんてのも、インパクトがあっていいですよね。
こちらのサイトで購入できます。
月、火星、金星ともサッカーゴール一面くらいの土地が3000円くらいです。
(ちゃんと権利書もついています)
それと、権利書の日付を購入日から一年以内ならば、好きな日に設定できるようです。
相手の誕生日や2人の記念日に設定するのもいいですね♪
現在は、バレンタイン特別企画で、色々と特典があるようです。
将来的に火星や月は、人類が移住するでしょうから、先行投資しておいて家宝にしておくと、もしかしたら、将来はすごいことになるかも??

『廃墟伝説』来場者数500万人突破記念として、
『
孤島の観光ホテル』(宮城県)の調査レポートをUPしました。
孤島の丘の上に建つレトロ感あふれるホテルです。

『
廃墟伝説』来場者数430万人突破記念として、
『
H国際観光ホテル』(東京都)の調査レポートをUPしました。
関東最大級の廃ホテルです。

『
廃墟伝説』来場者数420万人突破記念として、『
新潟R村』(新潟県)の調査レポートをUPしました。
教会がなかなか素敵でしたよ。
とまぁ、420万記念をUPできたと思ったら、430万突破してました(汗)。さすがに夏休みですね。アクセス数が・・・。ということで、430万記念のレポでも作ろうかな・・・。
そういえば、千葉にある『カレッジハイツ千葉』が今まさに解体中です。街中にあるため、なかなか潜入困難な物件でしたが、ついに解体の魔の手に落ちました。

長らく放置してしまいまして、申し訳ありませんでした。
久々の更新です!
『
廃墟伝説』来場者数410万人突破記念として、
大阪造船所田○製作所の調査レポートをUPしました!
数年前に発見したのですが、今回、再訪してたくさん写真撮ってきました。山形の代表物件は、やっぱコレですかね~。
戦時中は、
川○工業○ノ崎造船所(伊万里造船所)同様、輸送艦なんかを作っていたので、戦争遺跡でもあります。
ぶっちゃけ、もう来場者数420万以上なので、今更なのですが、
引き続き、420万人突破記念の調査レポでも作ります(笑)

久しぶりのブログになります。今年初めてですね。本年もどうぞ、よろしくお願いいたします!
日本の景気が上向きになってきたせいでしょうか。ここ数年で、大型の産業遺跡が次々に解体されていきました。記憶に新しいものでは、兵庫の
明延鉱山と
神子畑選鉱所、岩手の
釜石鉱山、福井の
中竜鉱山、愛媛の
大久喜鉱山、岐阜の
茂住鉱山、
栃洞鉱山、岡山の棚原鉱山の巨大選鉱所等が解体されました。
規模は小さいですが、埼玉のニッチツ鉱山の古い選鉱所も取り壊されました。
小規模の選鉱所施設が残る鉱山は、まだまだたくさんありますが、巨大選鉱所が残る鉱山遺跡は、栃木の
足尾銅山と三重の
白石鉱山(白石工業桑名工場)くらいになってしまいましたね。とても残念です。
残っている産業遺跡を大切にしていきたいものですね。

滋賀県の『
ワ○ウ電子工業』の写真をUPしました!
かなり古い工場の廃墟で、千葉の
検見川送信所を髣髴させるような物件でした。
それから、先日、行ってきた東海オフの物件もリストUPしました。

『
Legend of Ruins ~廃墟伝説~』来場者数390万人突破記念として、愛媛県の『
大久喜鉱山』の調査レポートをUPしました。
大久喜鉱山は、大正9年に採掘が始まり、昭和9年に昭和鉱業によって機械化。大量採掘により、愛媛県第二位の鉱山(第一位は別子銅山)にまで発展しましたが、昭和46年、資源の枯渇により、閉山を余儀なくされました。
その後、観光地化しようと、平成9年にテーマパークが建設され、鉱山資料館が建てられ、選鉱所などを一般公開ていました。しかし、山奥のテーマパークや遊園地というのは、交通の便が悪いので、よほどの目玉がない限りは、客が集まらないので、経営破綻の道を進むというのが定石です。
残念ながら、このテーマパークも開業後、すぐに閉園に追い込まれ、その後は、廃墟化の一途を辿りました。そして、平成18年、ついに鉱山施設の解体工事が始まりました。
ここに、追悼の意を込めて、紹介したいと思います。
これは、神奈川県の某所に、今だに語り継がれる不思議な伝説の話です。
【じゅんいち伝説】
国道246号線、旧善波トンネル付近にある善波峠。
昔、ここで一人の少年がバイク事故を起こして死亡した。
その少年の名は、準一。当時17歳の高校生だった。
それ以来、この事故現場で、しばしば準一君と思われる少年の霊が目撃されるようになった。
その少年は、度々、この峠を通りかかる車やバイクの前に立ちはだかり、轢かれてしまうのだという。
それに驚いた運転手が事故を引き起こしてしまう。
そんな事件が相次ぎ、その噂は、ついに準一君の両親の元に届いた。
両親は、いたたまれない気持ちになり、もうこれ以上事故が起こらないようにと「もう死なないで 準一」という看板と地蔵を立てたという。
この看板の設置が物議を醸し出した。
これが準一君伝説の始まりであった。
『もう死なないで準一』
その看板は、旧善波トンネル出口付近に建っていたという。
紫色の看板に白の文字、周囲には黄色い電球をあしらっており、看板の上には小さな仏像が乗っていたという。
そして、夜になるとこの看板が光っていたという。
当時、この辺りには、民家がポツリポツリとあるだけの閑散とした風景で、今のようなラブホテル街ではなかった。
そんな風景の中、夜になると、この看板だけが異様に目立ち、通行する者たちの間で、数々の疑問が囁かれた。
準一君という少年が、この場所で事故死をしたのは、新聞にも載ったので、知っている人も多い。
しかし、なぜ、『もう死なないで』なのか・・・。
その噂の一つは、『じゅんいち連鎖説』である。
『じゅんいち』という名前の人が、車やバイクで、この峠を通りかかると、目の前に準一君の霊が飛び出してきて、事故に誘うのだという。
そして、『じゅんいち』という名前の人ばかりが事故死するということで、『もう死なないでじゅんいち』という看板が立てられたというのだ。
これが『じゅんいち連鎖説』だ。
この噂には、続きがある。
あるトラック運転手が、この峠を通りかかった時、やはり少年の霊が現れたという。しかし、事故寸前で車を止めることができた。その時、少年の声がしたという。
「なんだ・・・お友達になれると思ったのに・・・」
なぜ、このトラック運転手が事故に遭いそうになり、事故から逃れることが出来たのか・・・。それは、この運転手の名前が『じゅんじ』だったからだという。
この『じゅんじ生還説』には、事故寸前説とエンスト説がある。
上記のようなトラックが事故寸前で止まって声が聞こえたという説と、急にエンストしたので、車外に出たら、少年が現れたという説があるのだ。
いずれにしろ、『じゅんいち』という名前でない限り、助かるのだという。
いつの頃からか、この道路そのものが、『じゅんいち君道路』とまで呼ばれるようになった。
では、この事故に誘う『じゅんいち』君とは、どんな少年だったのか・・・
【事故を誘う謎の少年・・・その真相とは】
この事故多発地帯に必ず現れる少年の霊。
それは、どんな少年なのか・・・
名前は、『じゅん』君というらしい。この『じゅん』というのが、本名なのかニックネームなのかは不明であるが、一説には、本名は『じゅんいち』だけど、周りからは『じゅん』君と呼ばれていたらしい。
噂に聞く少年(じゅん君)は、最初に事故を起こした準一君とは、別人のように思われる。
何故なら、最初にバイク事故でなくなった準一君は、17歳の高校生である。
しかし、事故現場で度々目撃されている『じゅん』少年は、明らかに子供である。
では、何故、この少年(じゅん君)の霊が出現するのか・・・
この『じゅん』君には、父親がいた。
父親は、新善波トンネルの工事関係者で、実際に工事現場で作業をしていたという。
ある日、まだ小さな『じゅん』少年が、父親が忘れていった弁当を届けようとして、父親が働くトンネルの中に入っていったところ、落盤事故に遭い、亡くなってしまったのだという。
その後、新善波トンネルは開通したが、今もなお、トンネル内に少年(じゅん君)の霊が現れて、事故を誘うのだという。
この噂から、この少年(じゅん君)と最初に事故死した準一君とは、明らかに別人であることがわかる。
年齢が全く違うのもそうなのだが、そもそも出現する場所が異なるのだ。
最初に噂されていた準一君が現れるのは、旧善波トンネルのある旧道の方であり、少年(じゅん君)が現れるのは新善波トンネルの中(あるいは出口付近)だからだ。
新善波トンネルが開通に伴い、旧道の通行量が激減した為、旧道での噂も激減した。
その代わり、新善波トンネルで、新たに噂がされるようになったといったところだろうか。
では、本当に起こった事故とは、何だったのか。
その事故と噂との因果関係はどういったものなのか。
検証してみることにしよう。
【一体、どんな事故が起こったのか・・・事故の真相とは】
現在は、新善波トンネルの開通により、国道246号線の伊勢原市と秦野市の間にある善波峠は、まっすぐな道で通り抜けることができるが、当時は、この国道はクネクネとS字カーブを描いていた。
その痕跡は、今でも見ることが出来る。現在の旧善波トンネルがあるのが旧国道である。
トンネルを抜けると急なカーブになっているのだが、このカーブを曲がりきれなくて事故に遭うケースが多かったようだ。
準一君の事故が起こったのは、1965年(昭和40年)9月2日のことである。
スピードを出し過ぎてカーブを曲がりきれなかったトラックが、対向車線にはみ出し、準一君の乗ったバイクが正面衝突してしまった。準一君は即死であったという。
この時のトラックこそが、今もなお、『呪いのトラック』として、一部で語り継がれているが、真相は明らかでない。
その事故以来、両親は、準一君が事故に遭う夢を幾度となく見たという。
その後も、その事故現場では、事故が絶えなかった。主要な幹線道路で、かつトンネルを抜けるとすぐに急カーブがあるという構造上、事故が起こりやすいのは目に見えているのだが・・・。
いたたまれなくなった両親(及び親戚)は、準一君の霊を供養するのと、これ以上、同じような事故を起こして欲しくないという願いを込めて、事故現場に看板と地蔵を立てた。
その当時のことが毎日新聞に掲載された。1966年(昭和41年)5月10日の記事である。
「魔の善波峠に菩薩像 無事故の祈り込め 息子失った○○さん」
何かの雑誌で、このようなタイトルで書かれているのを見たことがある。その雑誌の記事には、看板の写真も掲載されていた。ただ、白黒写真だったのでどんな色をしていたのかまではわからなかったが、看板の支柱が錆びていたのと、看板の上の仏像がなくなっていたので、だいぶ後になって撮影されたものかと思われる。
その看板こそが『もう死なないで 準一』という看板なのだ。
そういえば、地元の人が、この看板にあやかって「もう死なないで じゅんいち」というレコードを出したことがあるという噂を聞いたことがあるが、真相はどうなのだろうか?
【その後、残された看板は・・・看板が引き起こす怪現象】
看板を立てたはいいものの、その文章表現が不味かった。
『もう死なないで準一』
いきなり、こんな看板が立ったので、地元をはじめ、ここを通る人たちの間で、妙な噂が立ち始めた。
最初の噂はこうだった。
「この峠を通ると、準一君の霊が飛び出してきて、車に轢かれる」
何度も何度も死ぬので、「もう死なないで準一」という看板を立てたという噂だ。当時、この噂は、かなり有名であった。
その次に出てきた噂が、今も語り継がれているものであり、
「『じゅんいち』という名前の運転手が、この峠を通ると、じゅんいち君の霊に殺される」というものだ。
事故を引き起こす「じゅんいち」君は、昔は高校生の準一君であったが、今は少年(子供)の「じゅん」君であるという説が有力だ。
「じゅんいち」という名前の人が度々事故死するので、「もう死なないでじゅんいち」という看板が立てられたというものだ。
いずれにしろ、奇妙な文章の看板が物議を醸し出したのは事実である。
【今、看板はどうなっているのか・・・事故現場の現状】
ここまで話を聞くと、その看板を実際に見てみたいものである。
現在はどうなっているのか。
看板が立てられたのは1966年のこと。その後、看板は風雨に晒され、支柱もだいぶ錆び付いてしまっていた。
準一君の遺族としても、もうこの看板を建て直す程の資金を払うのも大変だし、夜間点灯の電気代やメンテナンス費用を払うのも大変である。
もっとも、晩年は、電気は点灯させないようにしていたようだが、それにも関わらず、勝手に点灯したなどという目撃談も出てきていたようだ。
そして、老朽化して危険な状態になったとして、1989年(平成元年)に、看板は、ついに撤去されてしまった。
しかし、看板が撤去された後も、折からのオカルトブームで、伝説は語り継がれていった。
事故から41年経った今でも、時折、話題になることがるこの伝説・・・。
1枚の看板が、噂を呼び、その噂に尾ひれ羽ひれがついて、いつのまにか真実とは遠くかけ離れたものになってしまった。
一体、真相を知る人がどれだけいるのだろうか。
ちなみに、
当時の看板の写真を掲載しているサイトがありましたので紹介しておきます。
この伝説は、かつて、TV番組で紹介されたみたいですね。

『
日本戦跡調査団』の久々の更新です!
今回のレポートは、高知県の
旧海軍宿毛基地です。
太平洋戦争時に、第21突撃隊(震洋隊)が配置された基地で、魚雷艇整備壕、魚雷庫、弾薬庫、貯油庫などたくさんの遺構が残っています。詳しくは
レポートを見てください。
『
Tokyo Ruin Night 』を開催します。
【日時】
2006年11月25日(土) 18:00~23:00
【場所】
東京都杉並区阿佐谷北2-12-5 拓英ビル2F 「
我無双」
【入場料】
1500円(ワンドリンク付)再入場可
【イベント内容】
18:00~23:00 廃墟写真展/廃墟書籍類の販売
20:00~21:00 廃墟トークショウ
【出演予定】
「
廃墟explorer」栗原氏
「
蜥蜴の第三の目」リザード氏
「
廃墟に誘われて」ウシロ氏
「
廃墟伝説」黒魔氏
【定員】
約40名
※定員になり次第、閉め切らせていただく場合があります。
【問い合せ/主催者】
「廃墟explorer」
栗原氏
【イベント告知ページ】
『
Tokyo Ruin Night 』

今日は、炭鉱の町、夕張について語ります。
北海道の夕張市内にある炭鉱で栄えた町の話なのですが、最盛期には1000世帯あった町が、今は9世帯のみの寂れた集落になっているそうです。
私が訪れた時(2002年)は、まだ人が住んでいる家がたくさんあったのに、今は9軒のみだなんて・・・
夕張市は、19世紀に炭層が発見され、炭鉱の町として発展してきました。
1960年頃から、北炭夕張炭鉱、北炭平和炭鉱、三菱大夕張炭鉱の3つの炭鉱を初め、石炭関連鉱業が次々と発達し、最盛期には人口12万人近くの年にまで発展しました。
しかし、エネルギー革命や国外の安価な石炭の流入により、国産の石炭の需要が下がり、夕張炭鉱は閉山を余儀なくされます。
1971年の北炭夕張炭鉱第二砿の閉山、1973年の北炭夕張炭鉱第一砿および大夕張炭鉱の閉山、1977年の北炭夕張新第二鉱閉山、1980年の北炭清水沢炭鉱閉山、1982年の北炭夕張新炭鉱閉山と次々と鉱業所が閉鎖し、1990年の三菱南大夕張炭鉱の閉山を最後に、炭鉱の町夕張は幕を閉じます。
しかし、夕張の炭鉱の歴史をテーマパークにすべく、1978年に石炭の歴史村工事に着工。総工費112億円の巨大プロジェクトです。市は、1983年にテーマパークをオープンさせます。
時はバブルの最盛期、夕張市もバブル経済に乗り、夕張市長自ら作詞をし、歌った『めろん酒』なるレコードも発売。
映画『幸せの黄色いハンカチ』の撮影地として知られる夕張市は、1991年には、町おこしの一環として、
ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭を開催。
そのときの名残が、
こちらです。
『幸せの黄色いハンカチ』で使用された廃屋(写真)も、保存されて残っていますが、こちらは観光客がまだまだたくさん訪れていました。
石炭の歴史村の総工費は112億円といわれています。
そのうち、遊園地施設が18億6000万円かかっていますが、閑散としている石炭村の観覧車は雨漏りするほどメンテナンスが行き届いていないのだとか。
ロボット大科学館(総工費8億4000万円)のロボットたちも今はただの展示物と化しているそうです。(以前は、ちゃんと動いていたのだとか)
世界の動物館が4億6000万円、シネマのバラードが6億5000万円、石炭博物館が14億8000万円など、とにかくバブルな投資価格です。
これらの施設の過大な投資と放漫な経営により、市の財政は悪化の一途を辿ります。
その後、借金で前年度の借金を補填するという雪だるま式の借金をしていき、その利息が積み重なり、ついに、632億円の借金を抱え、2006年に夕張市は財政破綻しました。
財政再建団体になったのです。
この財政圧迫ゆえに、住民税の値上げ、公共料金の値上げ(水道料金値上げやゴミ収集の有料化)や除雪作業の回数減少、市立病院のサービス縮小化などが懸念され、多くの市民が他の自治体に移住していきました。
その結果が、9世帯のみの集落なのです。
夕張市は、現在、全国で3番目に人口の少ない市としても知られています。
炭鉱閉山のよる過疎化や大規模ダム建設による立ち退きなどの要因もありますが、やはり、この財政状況だと先行き不安になってしまうのでしょうね。

兵庫県のユネスコ会館がついに解体作業に入ったそうです。
ユネスコ会館は、当時の兵庫県連合婦人会長が芦屋を拠点にユネスコ活動をしたいという願いに、アメリカの社会事業家が共感し、来日の際に、会館創設基金として5万ドルを寄託したこと、芦有開発会社が建設用地3300平方mを提供したから始まり、 1964年(昭和39年)に財団法人ユネスコ会館が建設した施設です。
地上2階、地下1階の鉄筋RC製のモダンな建物で、宿泊施設とホールや会議室を備え、床面積1010平方mの大きな建物でした。
従業員は全てボランティアで働いており、ユネスコ関係者だけでなく、留学生、登山客なども多数利用し、ピーク時は年間1万人ほどの利用があったそうです。ライシャワー元駐日米国大使らも演奏会に訪れたそうです。
しかし、1988年、経営難から、3億2000万円で東京の企業に売却されましたが、研修施設になるはずの計画がバブル崩壊と共に頓挫して、以後放置されてきました。
この建物が建っている場所は、市街化調整区域であったために、建物を取り壊せず、宅地への転用もできなかったために、所有者はやむなく取り壊しせずに放置してきたということです。
1990年代初め、某大学のサークル部員が、この廃墟をカルト教団の施設に仕立てあげようと、カルト教団の新聞を自作し、それを地下室の一角の倉庫に山積みにしておいたそうです。
そのネタが面白かったのか、TV番組が食いついてきました。そして、その番組などをきっかけに、心霊スポットしいて広く知られるようになり、1993年から相次いだ不審火で荒廃が進み、その不気味さからか、兵庫県屈指の心霊スポットとまでされるようになりました。
精神病院の跡だとか、カルト教団の跡などと言われ、『地下1階のボイラー室では、1987年(昭和62年)に13人のカルト信者(または精神病患者)が集団焼身自殺をした』など、色々な噂が飛び交うようになり、更に県外などからもたくさんの人が訪れるようになりました。
多い日は1日に100人以上の若者が訪れていたそうですから、近所の住人にとっては、たまったものではありません。無論、噂は所詮、噂であり、実際には人が死んだり、病院や教団施設だったという事実はありません。
2001年3月に芦屋市から、企業側に対し、建物の地上部分(平屋のモダンな建物で、2階部分に相当する)を撤去し、建物の1階部分(コンクリート製の部分)入口を鉄板でふさぐよう指導が入り、一旦は封鎖されましたが、それも簡単に壊される始末でした。
2003年に、所有者から芦屋市にこの施設の寄付を申し出たものの、市側は、使い道がないとして拒否。更に状況は悪化していきました。
2004年4月に、建物に続く市道約100mの供用を廃止し、住民名義の私道に変更手続きし、道の入口も2mほどのフェンスで封鎖し、周囲に有刺鉄線を3重に張って侵入者を防ぐようにしました。 そして、芦屋署も夜間のパトロール強化をしきました。
それにも関わらず、2004年6月11日には、肝試しに来た大学生の男女4人組が逮捕される始末。この4人組は、フェンスを乗り越えて敷地内に潜入し、歩き回っていたそうですが、近くに車を止めていたので、不審車と思われ通報されたのだとか。
更に、近隣住人からの強い要請により、芦屋市はようやく規制を緩和し、これにより空き地にすることが可能となったために、2006年10月、解体工事に着手しました。
もうじき、ユネスコ会館も伝説の廃墟となります。
廃墟は、単なる棄てられたものではありません。
その歴史を紐解くと、色々な真実が掘り出されてくるのです。

追悼記念として、『
串崎ケープホテル』の調査レポをUPしました。
1968年に開業し、当初は、団体客の観光バスがいくつも停まるような賑わいを見せた豪華なホテルでしたが、1973~74年頃に廃業しました。
その後、馬の飼育場、厩舎として再利用されながら、30年間くらい廃墟であり続け、2001年頃から心霊スポットとして有名になり、夜中にたくさんの肝試し系の人たちが訪れるようになりました。
2002年以降、6件の放火事件が起こり、ホテルの1階部分と2階の一部が丸焦げになっています。これを受けて、2003年には近隣住人から管財人に対して、解体要望書が提出されました。
そして、2004年9月に、肝試しに来た大学生が、男性の首吊り死体を発見しました。司法解剖による検死の結果は自殺であったが、男性が1年前に購入したばかりの新車が見つかっていない点、死亡推定時刻が肝試しで人が頻繁に訪れる深夜の時間帯だった点、どうやってココに訪れたか不明である点など、いくつかの疑問点が残っています。
事件後、TVやインターネットで実名(しかも一部は所在地がわかるように)での報道が色々とされ、超有名物件となり、たくさんの人が昼夜問わずに訪れるようになりました。結果、解体を急がねばという結論に至りました。
そしてついに、2006年8月より、ホテル解体が始まりました。
これにより、30年以上、廃墟であり続けた有名ホテルは、姿を消すことになりました。
しかし、まだまだ心配事が残ります。
そもそも、このホテルに肝試し系がたくさん訪れるようになったのは、情報の拡散だけではなく、近隣の心霊スポットの影響もあるのです。
比較的近くにあった有名心霊スポット『龍神閣』(国道沿いにあり入り放題だった)の取り壊し、同じ県内にある全国的に有名な心霊スポットである『
旧犬鳴トンネル』へのアクセスルートの封鎖(フェンスで封鎖し、車で行けないようになった。徒歩ではかなりの時間がかかるため、訪れる人が減った)などにより、気軽に肝試しが出来る場所がなくなり、国道沿いにあって入りやすいこのホテルに人が集中するようになったのです。
このホテルの取り壊しにより、ここで肝試しをしていた人たちが更に他の廃墟などに移っていく可能性があるのです。その最も危険性が高いのが『K造船所』でしょう。文化財級の価値があるこの産業遺跡に、肝試し系の人たちが集まってくることが懸念されます。落書き等がされないように、早急な措置が必要なのではないでしょうか。

今日9月30日は、あのジェームス・ディーンの命日です。
51年前の今日、彼は24歳の若さで亡くなりました。
そして、その日から、あの都市伝説は始まりました。
以下、その詳細です。
1955年9月30日(金)15時30分頃、映画「ジャイアンツ」の撮影を終えた後、ジミー(ジェームズ・ディーン)は、愛車のポルシェ・スパイダー550に乗り、カーレース場に向かっていた。
その時、助手席に同乗していたのは友人のラルフ・ウッタリック(27歳、カーメカニック)であった。
この日、ジミーは、カリフォルニア州の小都市、サリナス(ロサンゼルスの北西)で行われるカーレースに出場するために、ルート99を走っていた。しかし、運悪くスピード違反で捕まっってしまった。136km/hで走っていたので、制限時速を16㎞/hオーバーしただけだが、スピード違反の切符を切られたという。
17時を少し過ぎた頃、ジミーとラルフは、ルート466とハイウェイ33の交差点のレストラン、ブラックウェルズ・コーナーでひと休みした。
そして、小休止の後、再びサリナスに向けてルート466を西に向かった。
そして、15時45分頃、ジミーの車が、パソ・ロブレスの東48kmの所にあるルート466とルート41のY字分岐点に差し掛かった時に、それは起こった。
ジミーとは反対側からこのY字分岐点にさしかかったドナルド・ターナップシード(23歳の学生)が運転するフォードは、左前方へ左折してルート41に入ろうとし、対向車線から直進してくるジミーのポルシェと激突した。
ジミーは優先道を走っていたので、減速しなかった。
しかし、ジミーのポルシェは、車高が低く、起伏のある道路の陰に入ってしまい、しかも車体の色がシルバーだったので、道路の灰色と一定化して見えにくい状態になっていた。そして、ドナルドがジミーのポルシェに気付いた時にはもう遅かった。
ポルシェは、運転席側が大きくえぐれ、ジミーは、シートベルトは着用していたものの、顎、両腕を複雑骨折、頸部骨折、内臓破裂で、救急車で病院に運ばれたものの、ほぼ即死状態であったという。
助手席のラルフは、車から投げ出された衝撃で骨折したが、命に別状はなかった。また、衝突相手のドナルドは、かすり傷程度であったという。
この事故は、裁判になった。
裁判の結果、衝突の原因はジミー側のスピード超過で、ドナルドは無罪となったという。
ここから、この呪われたポルシェの伝説が始まるのだ。
ジミーのポルシェは、運転席側が大きく損傷してものの、他の部分は、比較的壊れていなかったため、ジミーの友人の一人が、このポルシェを自分の車のスペア用に買い取ったという。しかし、この友人の家のガレージに着いたポルシェは、運搬車から下ろす際に不意に落下した為に、作業員の1人が足を骨折させた。
翌1956年、車好きの医師2人が、このポルシェのエンジンとトランスミッションを買取り、各々の車に搭載させ、初めてレースに出場したが、両名とも事故を起こし、1人は死亡、1人は重傷を負ってしまった。
また、無傷のタイヤを買い取った若い男は、それらのタイヤが同時にパンクした為、事故を起こし、危うく命を落としそうになった。
これらの事件で、ジミーのポルシェは、話題を呼ぶこととなり、当時のカリフォルニア警察は、ジミーの車を交通安全の催しで展示することにした。
しかし、この催しで展示中、ガレージで火災が起こり、ジミーの車以外の全ての車が焼失してしまった。
また、サクラメントの高校で催しを行った際には、展示台から車が落ちて、高校生が重傷を負ってしまった。
結局、車はサリナスに転送されることになったが、運搬中にポルシェが運搬車から落下し、それが原因で事故が起こって、運転手が死亡した。
その後も、1957~1958年にかけて、このポルシェに関する事故が多発した。
1959年の事故はとても不思議であった。なんと展示中に、突然、ポルシェがバラバラに分解してしまったのだという。
そして、1960年、車の部品は、箱詰めされて、ロサンゼルスに転送されたが、運搬中に消えてしまい、それ以降、このポルシェの都市伝説は、途絶えたというのだ。
今、このポルシェの部品は、どこにあるのでしょうか・・・
そして、この伝説は、今もどこかで輪廻転生しているのでしょうか・・・

まさかとは思っていましたが、先日の台風13号で
軍艦島の堤防が大きく崩壊しました。恐れていたことが現実になってしまいました・・・
復旧工事の視察で、役所の人や工事の人が軍艦島を行き来するでしょうし、復旧工事がはじまれば、工事の人が常駐することになるので、今以上に、上陸は不可能となるでしょう。
当面の間、軍艦島は、封鎖状態になります。
ただ、救われるのは、世界遺産登録を目指しているからでしょうか、復旧工事をしてもらえる方向だということです。護岸がなくなった部分の浸水が激しいでしょうし、まだまだ台風が上陸する可能性があるので、早急な復旧工事が待たれますね。
以下、9月27日付の長崎新聞の記事からの抜粋です。
『軍艦島の護岸破損』
本県を直撃した台風13号の影響で、「軍艦島」の通称で知られる端島(長崎県高島町)の護岸が、破損したことが26日までの市や県の調査でわかった。市の要請を受け、管理者の県は災害復旧工事を実施する方針。
端島は、長崎港の南西約19kmの海上に浮かぶ周囲約1.2kmの島。炭鉱島として栄え、最盛期には5000人以上の人口を誇ったが、1974年に炭鉱が閉山。現在は、無人島で、同市が所有。端島出身者や市民らでつくるNPO法人が世界遺産登録を目指し、活動している。
県などが19日に実施した調査で、同島南西部の護岸の「胸壁」と呼ばれる部分が、高さ約4m、幅約30mにわたり倒壊していることを確認。同島北東部の護岸でも基礎部分のブロックがめくれ上がっているのが見つかった。
県は被害状況を詳しく調査した後、国に災害査定を申請し、復旧工事を実施する意向。
情報ソース→
こちら

昭和50年代に大ブームとなった駅が北海道にあります。
それは、旧国鉄広尾線の『愛国駅』と『幸福駅』。
この2つの駅を結ぶ切符は『愛の国から幸福ゆき』として、数多くのカップルや家族・夫婦に買われていきました。
昭和48年3月のNHKの『新日本紀行』で紹介されてから、この広尾線の2つの駅が知られるようになりました。
そして、翌年、『愛の国から幸福へ』(歌:芹洋子)が発売されると、途端にブームが起こり、昭和48年には7枚しか売れなかった愛国~幸福間の切符が、昭和49年には300万枚も売れ、4年間で1000万枚も売れるほどになりました。今でも、愛国駅には1000万枚が売れたときの記念碑が残っています。
今回は、そんな広尾線の3つの駅のレポートを作りました。 →
こちら
なお、『愛の国から幸福ゆき』の記念切符は、こちらのサイトから通販で購入できます。→
こちら
ちなみに、同じような駅名にあやかったものとして、のと鉄道能登線の『恋路駅』があります。
こちらもレポートを作成しましたが、なかなかネタ的に面白い物件でした。 →
こちら

写真は、能登オフで和倉温泉に行った際に立ち寄った『海よ友よ』という店で食べた『
能登まんま膳』です。エビや鶏肉、しめじや茄子などの野菜が色々と入った焼き物(鍋?)と、干物を焼いたもの、温泉卵、ポテトサラダ、海草たっぷりの味噌汁、漬物、ご飯がついて、この1050円という値段なので、納得ですね。
それにしても、北陸は凄いですね~。
廃墟もグルメも凄いです!その辺のことは、後日、またブログに書き込みますね。

『
廃墟伝説』来場者数380万人突破記念として、『
雷電病院』(北海道)の調査レポートをUPしました!
2002年に、MSRP北海道支部のメンバーとの合同調査で訪れた物件です。この頃は、写真を撮ることよりも探索する方が優先していたので、写真の構図とかメチャクチャですね(笑)。
探索をしながら、適当にスナップを撮っている感じです(笑)。
今回のレポは久々に、『廃墟伝説』初期の頃に良く作った『サムネイル方式』を復活させました。

写真は、北陸オフの際に、越後湯沢温泉にある割烹料亭『一二三』で食べた「
刺身盛りあわせ」(3500円)です。どうですか、このボリューム。貝類が多いのですが、サザエ、ホタテ、タコ、ハマグリ、ツブ貝、赤貝、イカ、甘エビ、タイ、マグロ、シメザバ、ウニ、アジなどなど、いろ~んな種類の刺身が乗っています。量的には非常に満足ですね。

下の写真は、300円のご飯セットです。ご飯、お味噌汁、漬物がついています。これをセットにして食べました。我々が入って、ちょうど店が満席だったのですが、他に何組もお客さんが来たものの、並ばせないで、丁寧に断っているところが印象的でした。おかげで、待ち客を気にせず、ゆっくりと食事をすることができました。